慈眼院多宝塔じげんいんたほうとう
鎌倉時代建立。日根神社の神宮寺としての古い姿を残す。
天武天皇の勅願寺として天武2(673)年に開創されたと伝わり、その後も隣接する日根神社(大井関大明神)の神宮寺として数多くの堂宇が立ち並ぶ見事な伽藍を誇っていましたが、天正13(1585)年に豊臣秀吉の紀州攻めの兵火により焼失し、豊臣秀頼によって再建されましたが、当初からの建造物はわずかに多宝塔、金堂が残るだけとなっています。創建時は井関山願成就寺寿福院と称し、大井関御坊とも呼ばれました。
「日根野村荒野開発絵図」の中央に描かれる無辺光院は、日根荘の荘園政所として九条政基が最初に入った寺院ですが、慈眼院(もと大井関神社中之坊)をその後身とする説もあります。
今の号は江戸時代に京都仁和寺門跡より九条政基の院号である「慈眼院」の名を授けられ、真言宗御室派仁和寺の末寺となりました。
多宝塔は文永8(1271)年に建立された泉佐野市唯一の国宝建築物です。石山寺(滋賀県)、高野山金剛三昧院(和歌山県)とともに日本の多宝塔三名塔に数えられています。高さ10.5m、下重は一辺が2.7mの方形で、二手先で屋根を支え、軒支輪を飾っています。また、上重は12本の円柱をまわし、四手先で尾垂木と軒支輪を二段構えにして檜皮葺きの屋根をより一層ひきしめています。内陣の須弥壇の上に大日如来坐像(府指定有形文化財)と脇侍の持国天、多聞天を安置しています。明治修理の際に金堂隣から現在の場所に移転しています。