犬鳴山いぬなきさん
古来より葛城修験道の聖地とそこに息づく神事の継承。
犬鳴山には、斉明天皇の7年(661年)、修験道の開祖である役行者が28歳の時に開基した葛城系修験寺院の七宝瀧寺があります。入山田村の船淵村の山中にあり、所在地の犬鳴山を山号としています。また山内に七宝瀧があり、これを寺号としました。南北朝時代には志一上人と南朝方の橋本正督らによって中興され、戦国時代には根来寺僧が七宝瀧寺別当になり、根来寺の配下となりました。政基が日根荘に滞在中の文亀2年(1502年)11月、別当真福院真海から借りて書写した「七宝瀧寺縁起」が九条家に残されており、寺の由緒を知ることができます。これによれば、山中奥の瀧の岩上に不動明王が出現したのを見た役行者が歓喜感涙し、山頭の荒地を開いて一宇の草堂を建立し、出現の像を彫刻に仕上げ本尊としました。また、山中の流れに七つの瀧があり、これが「七宝充満の智水(煩悩を洗い流すという意味)」であることから寺号としたことがわかります。
かつては根来寺末寺(聖護院末)でしたので天台系の寺僧が犬鳴山を管轄していましたが、現在は真言宗犬鳴派本山です。『政基公旅引付』には「犬鳴山」「七宝瀧寺」の名前や子院(坊院)の阿弥陀坊・西坊・武蔵坊の名前が書かれています。政基は文亀2年(1502年)8月に和泉下守護の被官であった佐藤久信らの軍勢が上之郷、日根野西方、土丸を攻撃した際、西坊に避難したことや、犬鳴山の寺僧が火走神社などで雨乞いをしたことを書き残しています。大和の大峰山より6年早く開山されたので、元山上と呼ばれます。また葛城峯中の奥の院とも呼ばれ、文亀2年(1502年)の『犬鳴山縁起』でも8番目の行場と記されています。境内に長禄3年(1459年)銘の板碑があります。
「また、この山には興味深い伝説が残っています。天徳年間(957年~960年)のこと、紀州池田荘の山田某という猟師が葛城山中で鹿を追っていました。矢の狙いを定めたときに連れていた犬が吠え立てたため、獲物を逃してしまいます。腹を立てて頸を切ったところ、飛んだ頸が今まさに猟師を襲わんとしていた大蛇に噛みつき、彼は事なきを得ます。自分を助けるために亡くなった犬を供養するために、猟師は出家。永く愛犬の菩提を弔ったという話を聞いた宇多天皇が「報恩の義犬よ」と賞し、犬鳴山と名付けられたと伝えられています。」(犬鳴山七宝滝寺HPより)