日本遺産 日根荘 Japan Heritage Hinenosho

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構成文化財の魅力

日根荘遺跡(16ヶ所)ひねのしょういせき じゅうろくかしょ

地域の営みの中で日々変化を続けながらも荘園の礎を守り伝えられる中世からの建造物や景色が今に残る。

日根荘ひねのしょうは、鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の泉佐野市域にあった九条家領の荘園です。有力貴族の五摂家ごせっけの一つである九条家により、天福てんぷく2(1234)年に日根荘が立荘され、宮内庁くないちょう所蔵の『九条家文書くじょうけもんじょ』を中心に当時の様子がわかる「日根野村ひねのむら井原村荒野開発絵図いはらむらこうやかいはつえず」、「日根野村荒野開発絵図ひねのむらこうやかいはつえず」(1316年)や九条政基くじょうまさもとが入山田村長福寺いりやまだむらちょうふくじ滞在時に記した『政基公旅引付まさもとこうたびひきつけ』(1501~1504年)などの文書がたくさん残されているため、当時のことを解明する手掛かりをたくさん見出すことができます。また絵図で描かれた寺社堂などの建築物やため池、丘陵などの景観が現在でもよく残されていることで、新田荘遺跡にったのしょういせき(群馬県)や骨寺村荘園遺跡ほんでらむらしょうえんいせき(岩手県)とともに全国的にも有名な中世の荘園遺跡となっています。

この歴史的景観を構成するものの中から、寺社やため池・水路など14か所が平成10(1998)年に「日根荘遺跡」として国指定史跡に指定されました。また平成17(2005)年には領主であった九条政基が滞在したとされる長福寺跡が、平成25(2013)年には熊取町くまとりちょう域を含む土丸つちまる雨山城跡あめやまじょうが追加指定され、現在16か所が国指定史跡となっています。

国史跡日根荘遺跡指定地

《日根荘遺跡へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「下大木しもおおぎ」バス停下車、徒歩5分

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日根神社ひねじんじゃ

樫井川かしいがわ流域の開発と関係が深い神社で、日根荘全体の鎮守でした。「日根野村荒野開発絵図ひねのむらこうやかいはつえず」には「大井関大明神おおいせきだいみょうじん」と記されています。大井関の名は境内を流れる井川ゆかわを司る神社であったことに由来するものと考えられます。『政基公旅引付』には、毎年4月2日に祭礼があり猿楽さるがくの奉納や競馬くらべうま、弓矢神事などが盛大に行われていたと記されています。九条政基が帰洛後、豊臣秀吉とよとみひでよしの紀州攻めにより焼失しますが、豊臣秀頼とよとみひでよりにより再建され、現在は本殿と比売神社ひめじんじゃ本殿が府指定有形文化財となっています。毎年5月に飾りまくらをつけた3基ののぼり五穀豊穣ごこくほうじょうや安産などを願って巡行する、「まくらまつり」の宮入りが日根神社で行われます。「まくらまつり」は市の無形民俗文化財に指定されています。

《日根神社へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「東上(ひがしうえ)」バス停下車すぐ

慈眼院じげんいん

真言宗御室派おむろはの寺院で、九条家の日根荘経営で重要な役割を担っていたと考えられます。「日根野村荒野開発絵図ひねのむらこうやかいはつえず」に描かれる無辺光院むへんこういんの後身とする説もあります。寛文5(1665)年に仁和寺門跡にんなじもんぜきから九条政基の院号「慈眼院じげんいん」の院号を賜りました。境内には文永ぶんえい8(1271)年に建立された多宝塔・金堂があり、国宝・国指定重要文化財に指定されています。

《慈眼院へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「東上(ひがしうえ)」バス停下車すぐ

総福寺鎮守天満宮そうふくじちんじゅてんまんぐう

総福寺天満宮

日根野村荒野開発絵図ひねのむらこうやかいはつえず」に記される禅林寺ぜんりんじに比定されています。境内の南側に天満宮があり、天正てんしょう年間(1573~1592)に建てられた本殿は一間社春日造いっけんしゃかすがづくりで国指定重要文化財に指定されています。『九条家文書』には「天満宮」、「天神社」がみえ、「御湯立おゆたて」の行事が行われたと記されていますが、この天満宮がそれにあたると考えられます。

《総福寺鎮守天満宮へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「久の木(くのき)」バス停下車すぐ

新道出牛神しんどうでうしがみ

新道出牛神

日根野村荒野開発絵図ひねのむらこうやかいはつえず」に牛神松うしがみまつが描かれています。牛神の信仰は年に1度、農作業などで活躍する牛をつれてお参りをするもので、泉南地域では広く行われていました。日根野地区では新道出の他に西上などにも牛神の碑が残っています。新道出しんどうで牛神は近世には牛神座うしがみざがあり、現在でも8月に集まりが催されます。

《新道出牛神へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「西上(にしうえ)」バス停下車、徒歩5分

野々宮跡ののみやあと

野々宮跡

日根野村荒野開発絵図ひねのむらこうやかいはつえず」に丹生大明神にうだいみょうじんとして描かれ、『政基公旅引付』にも日根野野宮ひねののみやの祭礼についての記述が見られます。境内地は井川水路のそばまで広がり、水利や開発と関係の深い神社であったと考えられます。神社合祀じんじゃごうしにより社殿などが日根神社境内へと移転し、旧境内地の本殿付近には野々宮跡ののみやあとの石碑が建てられています。

《野々宮跡へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「久の木(くのき)」バス停下車、徒歩7分

八重治池やえじいけ

八重治池

日根荘成立時の天福2(1234)年には既に存在していた八重池と考えられます。「日根野村荒野開発絵図ひねのむらこうやかいはつえず」にも描かれています。現在は大池おおいけ尼津池あまづいけ・十二谷池などと連結して水系を形成しています。

《八重治池へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「久の木(くのき)」バス停下車、徒歩20分

尼津池あまづいけ

尼津池

日根荘成立時の天福2(1234)年には既に存在していた甘漬池あまづけいけと考えられ、日根野村域の開発の原動力になったと思われます。後に上流部に大池が築造されるまでは、丘陵部のため池群の親池であったと考えられます。現在でも尼津池からの水路は井川までの範囲を灌漑かんがいしています。

《尼津池へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「東上(ひがしうえ)」バス停下車、徒歩10分

井川ゆかわ

樫井川から取水する水路で、日根荘の中位段丘面の開発に重要な役割を果たしたと考えられます。開削時期は不明ですが、日根荘成立時には部分的に利用されていたと考えられます。土丸取水口から日根神社と慈眼院の境内の中を流れ、十二谷池まで延長約2.75kmを高度差約3mで流れるようにつくられています。現在も日根野地区の主要な水路で広範囲を灌漑しています。

《井川へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「新道出(しんどうで)」バス停下車、徒歩12分

火走神社ひばしりじんじゃ

九条政基在荘時は、入山田村いりやまだむら4か村(船淵ふなぶち菖蒲しょうぶ大木おおき槌丸つちまる)全体の神社で、「滝大明神たきだいみょうじん」、「滝宮たきみや」と呼ばれました。政基が筆写した「犬鳴山七宝瀧寺縁起いぬなきさんしっぽうりゅうじえんぎ」には、七宝瀧寺との関連も記され、『政基公旅引付』には、滝宮を舞台とした記事も多く見られます。入山田という名称は現在ほとんど使われていませんが、江戸時代につくられた湯釜ゆがま灯籠とうろうの銘文に「入山田荘いりやまだのしょう」とあり、4か村のまとまりを示す地名として伝えられていました。また秋季祭礼では、泉州地域でも珍しい形態となっただんじりをかつぐ、にないダンジリの宮入りが行われます。この担いダンジリ行事と火走神社本殿は、市指定無形民俗文化財に指定されています。また、本殿の左側に建てられている摂社幸神社本殿せっしゃみゆきじんじゃは、国指定重要文化財に指定されています。

《火走神社へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「中大木(なかおおぎ)」バス停下車すぐ

円満寺えんまんじ

円満寺

文亀ぶんき3(1503)年に入山田の人々が円満寺で般若心経はんにゃしんぎょう一万巻を購読して祈祷し、一万度参りをしたことが記載されています。また政基の命によって番頭が窃盗犯せっとうはんを留置する場ともなっていました。守護方しゅごがたの乱入に際しては早鐘はやがねを鳴らして住民を招集することもありました。現在は、下大木しもおおぎ地区の集会所として利用され、こうも行われています。

《円満寺へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「下大木(しもおおぎ)」バス停下車、徒歩5分

毘沙門堂びしゃもんどう

毘沙門堂としては資料中に見えませんが、この堂のある谷筋は五所谷ごしょだに(御所谷)と呼ばれ、『政基公旅引付』には「御所谷集会所」が記されています。境内には、正平しょうへい3(1348)年の板碑など石造物があります。現在も谷筋の人々によってこうが行われています。

《毘沙門堂へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「中大木(なかおおぎ)」バス停下車、徒歩5分

蓮華寺れんげじ

蓮華寺

蓮華寺の名は『政基公旅引付』に見えます。入山田村には蓮華寺が土丸と上大木かみおおぎの2か所にあります。上大木の蓮華寺は、応永おうえい24(1417)年の資料(九条家文書)で舟淵村ふなぶちむらの項に蓮華寺の記載があり、中世には存在していました。現在は上大木かみおおぎ地区の集会所として使用され、講などが行われています。境内には、中世の石仏や一石五輪塔いっせきごりんとうなどの石造物が残されています。

《蓮華寺へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「上大木(かみおおぎ)」バス停下車、徒歩10分

香積寺跡こうせきじあと

『政基公旅引付』に歳末や年始に際して政基に参上、訪問する香積寺の僧侶が記され、香積院と記される寺院も同一と考えられます。ここの僧侶が、政基に書物を貸し出したり、お茶を献上しています。江戸時代の絵図には光若寺こうにゃくじとみえますが、現在は廃寺となっています。指定地内には寛正かんしょう4(1463)年の一石五輪塔や天正年間の宝筺印塔ほうきょういんとう、石造物等をはじめ中近世の石造物が残されています。

《香積寺跡へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「上大木(かみおおぎ)」バス停下車、徒歩20分

長福寺跡ちょうふくじあと

長福寺ちょうふくじは、文亀ぶんき元(1501)年に九条政基くじょうまさもとが家臣10名ほどを連れて日根荘に下向し、入山田村いりやまだむらに入って永正えいしょう元(1504)年に帰京するまでの4年間、政基の居所となった寺院であり、日根荘の支配を行った政所まんどころでした。政基がそのときの生活を綴った日記が「政基公旅引付まさもとこうたびひきつけ」です。そこにはお堂、政基が住む建物、天満社てんまんしゃ、井戸などがあったことわかっています。この寺は慶長けいちょう16(1611)年の資料を最後に名が見えず、江戸時代に作成された寺社明細帳でも確認することができないことから、この間に廃絶したものと思われます。これまで字名「長福寺」の水田が所在地と考えられてきましたが、平成14・15(2002・2003)年度に実施した発掘調査により、大量の瓦とともに建物跡・園池えんち・井戸・石組みの暗渠あんきょ水路などが発見され、寺院跡と確認されました。現在長福寺跡の一部では、史跡の維持管理と周辺景観との調和を目指した野外展示として農地と稲作体験を実践しています。

《長福寺跡へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「下大木(しもおおぎ)」バス停下車、徒歩5分

土丸・雨山城跡つちまる あめやまじょうあと

熊取町雨山あめやま(312m)と泉佐野市土丸山つちまるやまじょうやま)(287m)の2つに連なるふたこぶの山頂付近に築かれた中世城郭です。天守閣が築かれる前の時代、南北朝期から戦国期(1300~1600年頃)にかけての曲輪くるわ武者隠むしゃかくし、堀切ほりきりなど城郭に関わる遺構が確認されています。紀州と和泉を結ぶ往還道おうかんどうに位置し、戦略上重要な場所として、長期にわたって一つの山城として機能したことがわかっています。
山頂や曲輪などからは大阪湾や関西国際空港をはじめ大阪南部のまちを、あるいは大阪府初の国が選定する重要文化的景観となった大木の集落を一望できるなど中世以来の絶景ポイントとして知られています。
『政基公旅引付』にも戦乱から逃れようとした日根荘入山田村の人々が山にこもったり、家財を隠したりしたとの記述も書かれています。また古くから雨乞い信仰の山としても地域の人々に知られています。これらのことから日根荘の営みと密接な関わりがある中世山城として、平成25(2013)年10月に追加指定されました。

《土丸・雨山城跡へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「大土出張所前(おおつちしゅっちょうじょまえ)」バス停下車、徒歩40分

十二谷池じゅうにだにいけ

十二谷池

日根野村荒野開発絵図ひねのむらこうやかいはつえず」に描かれる住持谷池じゅうじたにいけにあたります。この池は「日根野村ひねのむら井原村荒野開発絵図いはらむらこうやかいはつえず」にも描かれています。井川によって樫井川から取水し、日根野から広範囲の水田に灌漑しています。嘉吉かきつ元(1441)年には十二谷新池じゅうにだにしんいけ下池したいけ)が築かれ、日根野村・井原村・檀波羅密寺村だんばらみつじむらによる共同利用の契約をした資料が残されています。

《十二谷池へのアクセス》南海泉佐野駅またはJR日根野駅より、南海ウイングバス723「新道出(しんどうで)」バス停下車、徒歩12分

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